共有知についての考察

Tiltle: 共有知についての考察
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人は古代から共通の知識をもつことについて大変熱心であった。
それはジェスチャーとなり言葉となり文字となった。あらゆる技術革新は人と人との共有知をより深層化するために用いられてきた。
繊維は紙となり文字を媒介し、交通は紙を運び情報をより広大に繁茂させるために使われた。
情報媒体が音声しか無い時代では、言葉によって人は知識を共有させた。現代のうわさ話にすぎないようなものが知識の共有の重要な媒介であった。
紙と文字が発明されると、人は自らの知識を紙に落とし込み、それを他者に読ませる事で知識が伝播していった。言葉よりも即時性こそ低いが、劣化が少ない情報媒体は伝播の根幹をになった。
印刷の技術が革新を遂げると、それまでの誰かの書物を書き写し、人に渡していくという伝播はなくなり、誰もがオリジナルの書物を持つ事が可能になる。これにより紙はさらに劣化のない情報媒体へと昇華した。
電波が利用が可能になると、再び言葉が伝播の媒体として彩りを鮮やかにする。それまで、その即時性の高さ故に、声の届く所にいる人にだけ、しかも、ほんの一瞬の間でしか情報を伝播させられなかった音声というものは、電波によって、その有効範囲を爆発的に広げるに至った。ラジオ、テレビの台頭である。
テレコミュニケーションというものは、確実にこれらよりも早くから存在はした。しかしそれは、書籍、手紙、加えて電話などである。これらとラジオ、テレビの違いは何であるか、それはまさに同時に情報を伝播できる対象の数に集約される。これらはすなはち遠隔演説とも言うべきもので、それまでの遠隔通信手段とは一線を画していた。人は世界規模の情報媒体を手に入れたのである。
ここまで知識の伝播が発達しても人はまだ共有知に不満足を抱えていた。なぜなら未だ持って人は一対一のコミュニケーションをせずには相互に共有知を補い合う事が出来ないからである。つまり、受動的な共有知の増強は出来るが、積極的情報共有というものは、対話、手紙、電話しかなく、これらには書籍、ラジオ、テレビ、などにあるような膨大な数の人にたいして情報共有を行う事が出来なかったのである。もっとも単に大集団に対してアクセスを試みる方法としては街頭演説やチラシを配るなどの手段もあるが、これらには超長距離コミュニケーションが難しいという不満がある。
しかし、この不満すらも払拭しうる情報媒体が発生する事となる。インターネットである。
これの全く新しい情報媒体は今までの媒体の持つあらゆる性質を保持していた、音声の持つ即時性、書籍のもつ情報保持、さらにラジオ、テレビの持つ超広範囲への伝播も可能であったのだ。この新しい技術は瞬く間に広がりを見せ、情報伝播の主軸を担うまでになった。しかしながら捉え方次第では、これは単純にデジタライズされたもの伝える手段で、手紙などがデジタライズされて運ばれたと考えるのが適当であるという発想にもかなりの妥当性があると言える。
何にせよインターネットによって、とうとう人は世界を共有知で包み込むに至ったのである。
だが、未だに通信技術の発展は収束を見せない。これはいまだ人が、より広大で正確な共有知を求めてやまないと言い換える事が出来よう。
ここで、伝播されてきた情報を考えてみよう。
まず、言葉によって伝えられたのはなんであっただろうか、言葉はあらゆるものを表現する。これほど技術が革新しても人間達が未だに言葉を用いてのコミュニケーションをやめないのはその汎用性の高さからではないかと錯覚してしまうほどにである。
しかし、私が昨日の夕焼けをみて心打たれた事をあなたに伝えるとき、私はあなたに夕日をどのように伝えられただろうか?
おそらく私は、昨日の夕焼けの雄大さは新古典主義のようであったと言ったり、夕日の沈み行く悲しさをロダン地獄の門の上に腰掛けた詩人の苦悩のようであったなどといったり、その赤さを伝えるために、熟れた酸漿の今にも腐り落ちてゆきそうな実のような色であったと表したり、夕日の対極にから迫り来る宵をかつて見たモナリザの瞳のようであったなどと伝えるだろう。
しかし、もしあなたが酸漿を知らなければその赤さは伝わらないし、モナリザの瞳を右目を思い浮かべればその蒼さは伝わるが、左目を思い浮かべれば、褐色を想起することになるだろう。
つまり、言葉では情景はあくまでそれらしい事が伝えられるだけで、決して私が見たものがそのまま伝わるのではないという事である。文字に関してもこれは同様である。
それならば、より象形的なものである絵について考えるとどうだろう。これは言葉よりもより正確にさらに確実に見たものを再現し、直感的に人に情景を共有させるに至るだろう。人は色料によってはじめて自ら目の当たりにしたものを人に伝えるに至ったのである。
さらに見たものを伝える事はさらに発達した。写真である。これはまさに見たものをそのまま写し取り、人間が写実するよりも遥かに正確に再現してみせた。さらにその簡易さと言ったら何年もの修練でやっと得られるような人の写実の比ではない。
さらに、言語がその伝播の術を手紙、書物、電話、ラジオと着実に増やすのと同様に、見たものを伝える術も発達していった。
文字にしろ絵画にしろ、今やインターネットを媒介としてあらゆる情報が大挙をなしてネットワークケーブル上をかけずり回っている。
それでも未だに人がよりすばらしい共有知を持つ術を得ようとするのはなぜなのか、いったい何を伝える事が出来なくて不満足なのかという事が気にかかって仕方が無い。
人は大多数とインタラクティブにリアルタイムに広域にわたって何かを伝える事が出来るにいたったが、いまだに出来ずにいる事は何なのだろうか?
それは感情も含めた言語などよりも、もっとメタで抽象的な知識の伝播であると私は考える。
人は聞いたもの話し、見たものを描く事でその経験を共有してきた。単純な知識共有だけならばこれで十分である。人に地球が太陽の周りを回っていることを伝えるとき文字と絵を持って説明すれば、よほど熱心な宗教家でもない限り、理解させる事は十分に出来るだろう。
この事でわたしは、人間が未だ知識共有の開拓を目論むというのは、ともすれば、単純な知識共有に飽き足らず、本質的な情報共有を求め始めたのではないかと考えるに至ったというわけだ。
しかし感情を伝えるという事は大変難しい、たとえるなら"私の見たモナリザの瞳の色をあなたにどう伝えたらいい?"というジレンマにつながる所がある。
あなたが見ている赤色は私の見ている赤色と同じである事は確かめられないのである。
なぜなら、私たちがどうしてその色を赤と認識したのかということ考えれば明白である。
あなたは幼少に誰かに苺の色が何色か訪ねているはずだ、するときっとその人は、"それは、赤という色だ。血と同じ色だよ"とおしえてくれるのである。
もし、あなたにとっての苺の色がその人の見ている緑にあたる色だったとしても、あなたは苺の色をずっと赤と呼び続け、あなたの子が同じ質問をしたときに、"それは赤、太陽の色だよ"と教えるのである。
つまり、あなたにとっても私にとっても苺の色は赤ではあるが、仮に私の見ている苺の色はあなたにとっての紫色だったとしても、私もあなたも"苺は赤い"と信じてやまないのである。
本当にこのような事があるかはべつとして、感情を他人に伝えるというのはそういう事であるといえるだろう。
今後の通信技術のニーズは感情などの言語や絵に依存できないような抽象的な情報をいかに伝えるかという所にあるのではないかと私は思うのである。